大東市の專應寺(せんのうじ)に行ってきた。東高野街道沿い、生駒の山の麓にある寺や。
立派なイチョウの木があって、井戸水を汲み上げる手押しポンプまで残ってた。
そして説明板を読んで驚いた。この寺、大坂城とつながってた。
黒い山門と本堂

石段を上がると黒い木造の山門。江戸時代中期の建築様式やそうな。


境内には本堂・太子堂・鐘楼・山門・庫裏が揃ってる。浄土真宗本願寺派で、本尊は阿弥陀如来。
創建は鎌倉時代後期、親鸞の直弟子「二十四輩」の一人・唯信とされてるらしい。
大坂城の石は、ここから運ばれた

説明板のタイトルが「專應寺と大坂城」。何の関係が、と思って読んだらこういう話やった。
今から約400年前の元和年間、徳川が諸藩に命じて大坂城を築いた天下普請のとき。
京極丹後守高知(1572〜1622)がこの寺に陣屋を構えて、石垣用の石を切り出していた。
切り出された石は「野崎の浜」から船に積まれ、旧大和川(深野池・寝屋川)を下って大坂城まで運ばれた。
滞在の礼として、丹後守は寺の石垣と階段を積み、手水鉢を寄進したそうや。
そして説明板によると、今も石垣に「丹」の刻印と矢穴の跡が残っていて、手水鉢には「寄附 京極丹後守」の銘が刻まれてる。
これは完全に見落とした。次に来たときに絶対に探す。
山の麓やのに「浜」がつく理由
この話で、ずっと気になってたことが繋がった。
近所に中垣内浜公園という公園がある。山の麓やのに「浜」がつくのが不思議やった。
答えは説明板の中にあった。昔このあたりは深野池の岸辺で、船が着く「野崎の浜」やったからや。
今は住宅と田んぼが広がってるけど、400年前は水辺やった。地名だけがその記憶を残してる。
野崎まいりは、まずここに詣でてから
説明板にはもうひとつ、はっとする一文があった。
この寺の太子像は聖徳太子の自作と伝わる孝養像で、父・用明天皇の病気平癒を祈願する16歳の姿やという。
毎年春秋の彼岸に公開されて、多くの参拝者を集めてたらしい。
そして、野崎まいりもこの太子堂に詣でてから、北の野崎観音(慈眼寺)へ向かうのが一般的な道筋やった。
野崎観音には先に行ってたけど、本来はこっちが先やったわけや。順番を間違えてた。

立派なイチョウは市の保護樹木

境内でいちばん目を引くのが、この大きなイチョウや。見上げるとかなりの高さがある。

根元に標識があって、大東市の保護樹木・指定番号 第4号・昭和59(1984)年3月30日指定と書いてあった。


幹の太さと枝の広がりを見ると、指定されて当然やなと思う。秋の黄葉の時期はさぞきれいやろう。



井戸水を汲み上げる装置

境内の隅に、井戸水を汲み上げる手押しポンプが残ってた。コンクリの井戸蓋と石の水受け付き。
こういうのを見ると、ここが暮らしの場でもあったことがよく分かる。
東高野街道を歩いて帰る

この寺の前を通ってるのが東高野街道。京都から高野山へ向かう古い道や。
道端に木の標柱が立ってるので、歩いてるとすぐ分かる。


街道沿いには土塀や瓦屋根の家が残ってて、歩いてるだけで雰囲気がある。


このあたりに歴史的な建物が多いのは、街道が通ってるからやったんやなと納得した。
野崎観音も寶塔神社も、みんなこの街道沿いにある。
基本情報
| 寺名 | 專應寺(せんのうじ) |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 鎌倉時代後期/開基は親鸞の直弟子・二十四輩の一人 唯信と伝わる |
| 所在地 | 大阪府大東市 |
| 拝観料 | なし |
| 見どころ | 大イチョウ(大東市保護樹木 第4号)/石垣の「丹」の刻印と矢穴跡/手水鉢の「寄附 京極丹後守」銘 |
| アクセス | JR学研都市線「野崎駅」から東高野街道沿いに徒歩 |
※由緒などは境内の説明板(平成26年・大東市教育委員会)によります。
まとめ
大坂城の石を切り出した寺が、住宅街のすぐそばに普通に建ってる。それがこの土地の面白さやと思う。
石垣の刻印と手水鉢の銘は見逃したので、これは宿題や。次に来たときに探して追記する。
野崎観音、寶塔神社、そしてこの專應寺。全部が東高野街道でつながってる。


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